四季を通じて青い空がどこまでも高いドイツ・ミュンヘンよりご挨拶申し上げます。
私が奨学生としてドイツ・ハイデルベルク大学の博士課程に入学したのは、東西ドイツが統一して間もない1992年のことです。博士論文の最終章を子供の頃から夢見るドイツの国で仕上げることに、私の中の研究者魂は勇み、高ぶり、そしてこの瞬間に見るもの、聞くもの、触れるもの全てを逃すまいと、神経と意識は研ぎ澄まされていました。「ドイツにいらしたらね、ご自分の足でたくさんお歩きなさいな。そしてたくさん、たくさんご覧なさいな。」― お茶の水女子大学大学院時代のドイツ文学の教授、杉本正哉先生が私のドイツへの旅立ちに際して贈って下さった言葉です。学生時代、講義の後に先生の研究室にお邪魔して、助手さんが入れて下さる日本茶をすすりながら、先生の美学談義に耳を傾けるのが大好きでした。難しくて、当時は惜しいことに恐らく半分ほどしか理解できませんでしたが、先生が最後に仰ったこの言葉は簡単で、でもドイツに住むほどにその意味は深く、「自分の足で…」と先生を思いながら、30年近くたった今もミュンヘン西地区の自宅近くの小川沿いを黙々と歩くことを趣味としています。先生の訃報はそれから間もなく、ハイデルベルク大学の図書館で偶然見つけた日本の新聞で知りました。ドイツで歩いて、見て、考えたことを先生にお話ししたかったと、もう一度きちんとお別れをしたかったと、地団駄踏む思いは消えません。
ハイデルベルクでは、心がいっぱいになるたびに、小高い丘から森へと続く哲学の道をどこまでも一人で歩きました。インターネットなどない時代、日本へのわずか数分の通話が5マルクでした。学生寮に電話を持っていませんでしたので、まだ国有だった郵便局の中の国際通話の出来る電話ボックスの列に並び、やっと母の声が聞こえたと思ったら、コインの制限時間が終わっていました。5マルクの通話では、元気かどうか確認する以上の話しはできませんでしたので、イラスト入りの分厚い手紙を、週末になるとポストに投函していました。書くことで、心と頭に整理をつけていた、初めての海外生活。大学への入学とともに福岡の実家を離れ、6年間、東京で一人暮らしをしましたが、その頃の孤独とは異なる質の孤独があることを知ったハイデルベルクでの3年間でした。日本人がまだまれな存在だった頃。一人でいることは決して寂しくはありませんでしたが、相手への無関心が人の心を重く暗くすることを経験しました。誰かの笑顔が、一日をどれだけ晴れやかなものにしたことか。一人一人に関心を寄せる心の余裕と優しさを自分に誓いました。
森の中で、木の梢を走る風の音にシューベルトの旋律がフッと重なる瞬間、あるいは丘の上で、足元に広がるいくつもの教会の鐘がいっせいに自分の旋律を響かせ、それが不思議に調和して天へと昇華するのを体全体で感じる瞬間、ベートーヴェンにシューマンにブラームスが歩いたこの土地で音楽に携わる幸せで心はいっぱいになり、次から次へと現れた山や谷のただ中での何年にも渡るもがきすら、大らかな気持ちで振り返れます。
「上手に弾くのではなく、心に響く音楽を奏でる人に」という言葉と優しすぎる笑顔を残して、ある日突然、永遠に旅立ったミュンヘン音大ピアノ科元主任のフランツ・マッシンガー先生。20世紀の天才ピアニスト、アルトゥーロ・ミケランジェリの愛弟子だった先生が奏でるモーツァルトとシューベルトはひたすら美しく、心がアルプスを映す湖のように透明になるのを感じました。
「モーツァルトを弾くということを木の描写に例えるならばね、幹と枝と葉っぱがありますっていうんじゃなくてね、太い幹から枝が伸び、その枝からはさらに細い小枝が伸び、その小枝には大小様々な葉っぱがついていて、その一枚一枚に太く細く葉脈が描かれている。そしてそのうちの一枚の葉っぱにてんとう虫が留まっていて、パッと羽を広げたら葉脈そっくりの模様が浮き出た ― ここまで描くのがね、モーツァルトを弾くっていうことだと思うんです…。」楽譜に書いてある一つ一つの音符をいとおしむように、教授は目の前の一人ひとりを、どんな人でも、本当に大切になさいました。
音楽の研究のために海を渡って29年。何十もの難しい壁を乗り越えることができたのは、たくさんのドイツの人の深くて変わらない優しさがあったからでした。
ドイツの国で学んだのは、音楽だけではありませんでした。音楽と人の真なるものを私に教えてくれたドイツとの出会い ― 数え切れない程の不思議過ぎる偶然は、ここへ辿り着くための必然だったと確信します。
出会いの場としての音楽アカデミー。ハイデルベルク時代、音楽家一家のお宅にしばしば遊びに行きました。ご主人のヘルマン・シェーファーさんは作曲家で音大の教授、奥様のローレさんは、ソプラノ歌手で同じ音大の教授を引退なさったばかりでした。既に実家を出ていた三人の息子さんも、そのまたご家族も音楽家。誕生日、クリスマスと家族が集まるとコンサートになるのが自然でした。また毎月、音楽家や詩人がシェーファー家に集まって、自分の作品を発表したり、文学談議に花咲いたりと、いわゆる「アカデミー」の伝統がここにはありました。朝食の際、ゆで卵の頭をナイフの背でこつんこつんと叩いて殻を蓋のように開けて卵をスプーンですくって食べるのと同じに、このアカデミーは私にとってはドイツと同義語になっていました。そしてそんな場の主に、いつか自分がなることを心に描いていました。
今日、ミュンヘンのアカデミーのコンサートの始めに、私がお客様に向けてお喋りするのは、ハイデルベルクのシェーファー家でのアカデミーが理想として常に心に浮かぶからです。人と音楽、芸術、文学の距離がこんなにも近いことを知り、発見した場。音楽への、作品への向かい方に決定的な体験でした。自分はまだ音楽の何たるかを知らないことに気付き、論文の最終章を書き上げるどころか、長い、長い、10年以上に及ぶ研究における新たな旅が始まることになりました。
ソナタ形式とは ― その問いへの答えをどうしても自分で見つけたくて、ピアノ科から音楽学学科へと、それも学部で通ったのとは異なる、国立大学の大学院へと先生を求めて、ないところに道をつけつつ進みました。受験勉強は今振り返ると猛烈でしたが、新しい分野にひたすら夢中でした。
ドイツ語。音大での初めてのドイツ語の授業で、中村由加里先生が発音するこの言語の美しい響きとリズムに、これぞ自分の言葉と直感。習得の熱に浮かされ、とにかくよく勉強しました。先生に誘われて、ピアノ科でまだ初級文法を習いながら、先生が担当なさる音楽学学科の難しい原書講読や発声学の授業にもせっせと通いました。
東京での6年間、学ぶことに没頭していました。かなり変わった学生だったと思います。でもそんな変わり種に、どの先生も今振り返ると驚くほどの真剣さと情熱で応えて下さいました。それぞれの分野で、人として師として、心から尊敬する先生に出会うことのできた幸運をどこに感謝したらよいのかと、今も思います。
音楽作品の理解において、そしてヨーロッパ文化の理解において、決定打はハイデルベルク大学のルードヴィヒ・フィンシャー先生と前田昭雄先生との出会いでした。音楽作品と、真正面から分析を通してどっぷり四つに組み、その本質を説く鮮やかさ。楽譜に残された作者の意図に命が与えられ、こちらに語ってくるのを感じた瞬間。ここに私が探していた問いへの答えがあると確信しました。紆余曲折を経てようやく辿り着いた点。この時の心の騒ぎは、静まるのにさらに数年を要しました。
海外旅行が手軽になった今日。ミュンヘンにも多くの日本人学生がやって来ます。その皆に言いたいのは、自分の直感を固く信じること。でも本物の直感は、遊んでいては得られません。ちょっとだけ頑張るだけでも得られません。本気で、限界まで行きついた所で、啓示のように心がいっぱいになる瞬間がそれだと、私は思います。
先生に勧められて、親に勧められて、友達がいいと言ったからセミナーに参加したという学生が多くいます。先生に相談して、あるいは先生の許可を得てから来ましたいうお行儀のよい学生も多くいます。その素直な反応に感心しつつ、自分の人生を自分で掴む強さを持ってと、私の中の声にならぬ声がつぶやきます。あなたは、一度きりのあなたの人生を生きる機会を得たのですから。
たった一人の先生と始めたミュンヘンのアカデミーは、5年目に公益法人Asia-Europe Academy of Music Förderkreis klassischer Musikを設立、国境を越えて本物を真摯に求める音楽家を育成する体制の基礎を築きました。そして10年目の年、これまでの実績が評価され、学校法人としてのアカデミーも公益の認定を受けました。認定審査に携わった裁判官自らアカデミーに新しい名前を付けて下さいました。『Institut für Musik München』。Institut(インスティテュート)という語は、ドイツ語ファンならば『ゲーテ・インスティテュート』からご存知でしょう。ミュンヘンの音楽界を背負うかのような大きな名前を賜り、今、次の5年を描きます。
音楽と出会い、音楽を深く学びたいと考える若い皆さんに、無我夢中になる真剣さを心から祈ります。演奏で人の心を本当に動かすことは、容易ではありません。
「Ora Orade Shitori egumo」― 宮沢賢治の詩、『永訣の朝』は、まさに死に逝こうとする年若い妹とし子のこの言葉とともに、多くの人の心にたまらない悲しみとともに記憶されているでしょう。東北の方言で書かれたこの詩の言葉に技巧は感じません。それでも私達に深く訴えるのは、技術を超えた何かでしょう。
表現するためには、技術はもちろん必要です。音階のつぶを揃えて弾くことができずに、ショパンのノクターンはあり得ません。でもその先にある何かをつかむために、私達は音楽を、音楽を生んだ社会を人を、深く知ろう、理解しようとする謙虚さを持たなければならないのです。
たくさん失敗して、転んで、痛い思いをして、それでも起き上がるたびに人は一歩ずつ真理に近付くのだと思います。自分に対して、自分の心を偽ることは出来ません。どうぞ常に自分に本気度を問い、どこまでも深い音楽の世界を追求下さい。そんなあなたの生きる姿勢こそが、いつの日か、聞く人の心を本当に動かすのだと思います。
そんな真剣なあなたとの出会いの日がきっと訪れますように―
ミュンヘン音楽学院長・音楽学者・芸術文化学博士
小長久美
Dr. Kumi
Konaga
プロフィール
小長久美 Dr. Kumi Konaga
音楽学者・芸術文化学博士。1966年福岡県生まれ、1992年来ドイツ在住。
武蔵野音楽大学ピアノ科卒業、お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程(音楽学)修了。国際ロータリー財団奨学金を得てドイツ・ハイデルベルク大学博士課程(音楽学)入学。ルードヴィヒ・フィンシャー及び前田昭雄のもとで18世紀交響曲の資料並びに様式研究。2009年2月、『J. B. ヴァンハルの交響曲 ― ソナタ形式の観点からの様式史的作品研究 ―』により大阪芸術大学から芸術文化学博士号(論文博士)授与。欧日で講演、トークコンサート多数。学術研究と並行し、ドイツの国立芸術機関と国際的な音楽・文化・教育プログラムの企画、推進を行う。日本音楽学学会正会員。スタインウェイ・ピアノコンクール審査員を務める。公益学校法人Institut für Musik München 学院長。ドイツ公益法人Asia-Europe Adademy of Music Förderkreis klassischer Musik e. V. 理事。
Institut für Musik München gemeinnützige GmbH
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